常識の正体は「●●なき●●」だ(映画『永遠の0』感想)

読書・映画感想

映画『永遠の0』を観ました。
 
第二次世界大戦中の
海軍の飛行機乗りの話です。
 
観ていて
涙があふれ
嗚咽が止まりませんでした。
 
そんな中
映画を観ながら
ずっと考えたことがあります。
 
それは 
「常識の正体って何だ」 
ということです。 
 
この記事では 
 
・なぜそんなことを考えたか 
・常識とは何か 
・その常識の中で私はどう生きるか 
 
について書きます。 

「生きたい」と言えない時代 


主人公の宮部は 
海軍の飛行機乗りでした。 
 
そんな宮部は常に 
「生きたい」 
「生きて、家族の元に帰りたい」 
と願っていました。 
 
今であれば 
何もおかしくない 
正当な願い。 
むしろ、 
ワークライフバランスが叫ばれる時代では、 
称賛される考えでしょう。 
 
 
しかし、 
80年前は違いました。 
 
「臆病者」 
「恥さらし」 
「非国民」 
 
宮部に浴びせられたのは、 
ひどい罵詈雑言でした。 
 
 
正当な意見を言っても 
「精神力が足りない不忠者め」と 
上官から死ぬほど殴られる宮部。 
 
観ていて、 
胸がぐぅーっと締め付けられました。 
 
 
「なんで、なんで、 
 こんなにも人間として、 
 当たり前のことを言っているのに、 
 こんなむごい仕打ちを 
 受けないといけないのか」と、 
 
 
何度ともなく 
悔しい思いをしました。 
 
宮部は、 
最終的には特攻で亡くなります。 

宮部を追い込む「常識」 

宮部をそこまで追い込んだものは 
何だったのでしょうか。 
 
それは戦争でしょう。 
 
もっといえば、 
時代でしょうか。 
 
もう少し踏み込むと、 
それは 
「常識」とも言えます。 
 
 
「国のために命を賭けることが正義」 
「命を惜しむものは非国民」 
 
という常識が、 
宮部の精神をどんどんと蝕み、 
追い込むことになったのです。 

常識とは何か 

「常識って何なんだ…」 
 
映画を観ながら 
ずっとそのことを考えていました。 
 
そして、ふと思いました。 
 
常識とは 
「根拠なきエゴ」 
なのではないか、と。 

常識から「身を護る」 

映画に登場する軍人達はみな 
「国のために命を賭けることは正義」 
「それが出来ない者は恥だ」と 
強い信念を持っていました。 
 
では、 
なぜそのような信念を持っていたのか。 
 
これはあくまで私の意見ですが、 
それは 
「常識から身を護るため」だと思ったのです。 
 
(ここから先は、様々な意見があると思いますので、一個人の意見として見ていただければと思います) 
 
 
どんな人でも 
「立場」があります。 
 
上司や同僚やご近所や世間の目など… 
 
そのような周囲から 
自分を守らなければなりません。 
 
映画に登場する 
宮部を罵倒する軍人もまた、 
当時の「常識」から自分を護ることに 
必死だったのではないでしょうか。 

常識は「ごく一部の人間」から生まれる 

では、そもそも 
「常識」はどのようにして生まれるのか。 
 
私は 
「ごく一部の人間」から生まれると感じます。 
 
トップに近い人間、 
とも言えるでしょうか。 
 
どんな組織(国や社会も含め)にも、 
トップがいます。 
 
そのトップの行動・雰囲気・決断を 
敏感に察知し、 
周囲が動きます。 
 
それに呼応するように、 
またその周囲が動く… 
 
 
そのような波及の中で 
「これは良い」「これは悪い」という、 
暗黙の不文律が出来上がる 
のだと思うのです。 
 
(ここでは「トップが悪い」ということを言いたいわけでは決してありません。「常識が生まれるプロセス」への個人的な見解をお伝えしたかったのです) 

常識の正体 

ここでやっかいなのが、 
その不文律を作るのが、 
「生身の人間」ということです。 
 
人間には 
「欲」があります。 
 
承認欲・出世欲・生存欲・安全欲・優越欲… 
 
暗黙の不文律に 
様々な人の欲の塊が混ざり合い、それが 
「常識」という 
大きな魔物を生み出す。 
 
 
そこには、 
根拠はないのだと思います。 
だって、 
常識をつくるのは、 
「一人ひとりの人間のエゴ」 
なのですから。 
 
だから私は、 
常識とは 
「根拠なきエゴの塊」 
だと感じるのです。 

常識は変えられない 

この常識のうねりは、 
誰も変えることはできません。 
 
あまりに巨大で、 
もはや、 
トップですら変えることはできないでしょう。 
 
変えようとすることは 
まさに大波を拳で打つほど 
無意味なことです。 
 
 
また 
虚しくもあります。 
 
私は、映画を観て、 
どうしようもなく気持ちが昂りました。 
 
無念さ・理不尽さ、正直にいえば、苛立ちすら覚えました。 
 
精悍で優しい目をした若者たちの命を、 
こうも簡単に無下にする時代や常識に、 
どうしようもないほどの怒りが湧いたのです。 
 
けれど、 
時代や常識は 
怒りの矛先を向けるには 
どうしようもなく 
巨大で、実態がありません。 
 
私の怒りは、 
心に暴力的なしこりを残すだけで、 
その他は何も変わらないのです。 

私達はどう生きるか 

大切なのは、 
この戦争の悲劇を受け、 
「今をどう生きるか」 
ということだと思うのです。 
 
 
 
私は 
「常識を蹴り飛ばせ」 
というメッセージを感じました。 
 
私がいま書いたことは 
80年前の出来事です。 
 
1,000年や2,000年前の話ではありませんよ? 
 
たった80年で、 
正義は悪に 
悪は正義に、 
常識は180度反転したのです。 
 
 
あまりにも 
常識って脆いと思いませんか? 
 
私達が、 
一度しかない貴重な人生を預けるには、 
あまりにも 
脆弱で、不安定で、根拠がなく、信用ができないと思うのです。 
 
 
 
私は 
「常識」でなく 
「個の想い」を大切に生きたいのです。 
 
80年前の 
あまりに巨大で暴力的なうねりの中では、「生きたい」という 
人間の根源的な欲求すら表現することは 
不可能でした。 
 
 
けれど、 
今の時代なら出来る。 
 
もちろん、現代でも、 
常識や世間体が、 
私達の想いに深く覆いかぶさり、 
本音を心の奥底に押し込めてしまう、 
そんなストレスはあります。 
 
 
けれど、80年前に比べ、 
心を表現できる環境が整っていることは、 
間違いない事実だと思うのです。 

幸せに生きる義務がある 

『永遠の0』を観て 
私達の日常は 
尊い命の上に成り立っていることを、 
痛感しました。 
 
感謝なのか、切なさなのか、儚さなのか、 
今の気持ちを表現できる言葉を 
正直私は持ち合わせていません。 
 
 
けれど、一つだけ、 
確かに思ったことがあります。 
 
それは、 
私達には、 
幸せに生きる「権利」がある、 
ということです。 
 
いや、誤解を恐れずに言えば、 
私達には、 
幸せに生きる「義務」すらある 
ように思えるのです。 
 
 
だって、 
あんなにも若く、 
精悍な若者たちが、 
どうしても生きたかった明日を、 
今わたしたちは生きているのですから。 
 
 
人生には限りがあります。 
今日一日を 
心を大切に生きる。 
 
私達なら、 
きっとそれが出来る。 
きっと出来る。 
私はそう信じて止みません。

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